塾という得体の知れない場に、途中から初めて入室しようとするとき、ほとんどの保護者が口にされるのが、「塾の勉強がかなり進んでいて出遅れてしまっているけれど、途中からでもついていけますか」という焦りと不安。受験という乗り物は、かなり速い乗り物にみえるようだ。
受験勉強という乗り物は、勉強したいと思ったときに、動き出すものであり、スタート時期は決まっていない。また、次々に乗り物がやってくるので、乗り遅れたらおしまい、というわけではない。安心してほしい。だからといって、飛行機に乗るがごとく短時間でマスターできるほど受験勉強の量と質は中途半端ではない。
受験を乗り物にたとえるなら自転車がいい。ただ運転するのが子どもの場合、どこに行くか分からないという不安はある。そこで大切なのは、「道」ということになる。
ゴーカート場のコースのように、安全・確実で、どこに通じているのかはっきりしていれば、子どもは自分で運転して確実に目的地に到達することができる。ただし、好奇心という高貴な着ぐるみを着た子どもたちは、寄り道したり、蛇行したり、休んだりする場合が往々にしてあるので、全員同じ時刻に到達するというわけではない。
次に、受験勉強の「道」はどこに通じているのか。当然、志望校だ。その志望校のゴールが高い山の頂上にあるのか、なだらかな山の中腹にあるのか、それは、その子の目指すものによる。共通しているのは、どちらも「山」であること。決して平坦ではないし、下り坂でもない。そんなゴールでは、学力が身に付かないし、人間力が高まらない。
「ついていけるでしょうか」という親の言葉は一種の社交辞令で、「ついていけないわけはない」と思っているかもしれないけれど、不安には違いない。「もう、手遅れです。逆立ちしても間に合いません」と言ってあげたらどんな反応を示すだろう。
親の心配が子に伝染しないかぎり、「ついていけるかどうか」は、大人(親)の不安であって、本人(子)の問題ではない。たぶん本人は、そんなことどうでもいい、と思っている。子どもの不安は勉強ではなく、新しい未知なる「場」に対するものだ。だから、最初はちょっと緊張していても、しだいに授業の流れに乗ってしまっている。ほんとに自然に。当初の不安なんて、みじんも感じられなくなっている。これが経験的な結論。親の不安と子どもの不安は「種」がちがう。
そこで、この「ちがい」が生じる原因は何か。それは立場の問題だ。たとえれば親がどんな乗り物に乗って子どもを見ているかだ。
どうも親は飛行機に乗っているらしい。見下ろしながら子どもを見ているのだ。自分は速い流れの中にいるものだから、のんびりゆらゆらと動いている子どもをじれったい、はがゆいものに感じてしまう。「見下ろし」が、いつの間にか「見下し」になってしまっている。では、どうするか。
親には、ぜひ舟に乗ってほしい。でも、巨大な鉄の塊の、無機質な「船」はいけません。櫂を漕ぎながら舟に乗って子どもを見るのが一番いい。子どもが立てる波に揺られて揺らぐ舟に乗って、はらはらドキドキしながらわが子を見守って生きるのが親の基本的なスタンスじゃないでしょうか、どうでしょう。
では、子どもは何に乗っているのかって? あなた方が、わが子を思って買い与えた最新型のボートですよ。最初は動かし方がよくわからず、動いたり、止まったり、進んだり、戻ったりして手間取っていますけどね。
(くれぐれも、親が最新型のボートに乗って、一生懸命に櫂を漕いでいる子どもの周りをぐるぐる回りながら、親心という波風を立てて子どもの進む針路をじゃますることのないようにご注意ください)
しかし子どもがボートの操作に慣れてきたら、あっという間にどこかへ行ってしまいますよ。
いつの時代も、最後には子どもは親を追い越すようにできているんです。